墳墓の縁起及び碑文

墳墓の縁起及び碑文

松平信孝は、三ツ木城主にして、家康公の祖父の兄弟にあたられ、当山四世利空と懇意なり。天文五年(1536)広忠公と共に当寺に来たり「寺地八町四方を寄進す」との寄進状に、役人百姓より入れたる証文を添えて、住持に贈れり。その後、天文十七年四月十五日(1548)岡崎明大寺に於いて討ち死にす。平常当寺に帰依し、且つ、以前の約束に依り遺骸を当寺に葬り、石碑及び位牌当寺に現存せり。

 

その後星霜相遷り、三ツ木に異変在り、此の墳墓が損傷したるが故なりと託宣在り、依って昭和六十年十二月縁者挙って修復し、その後鎮まり、現在に到る。

松平信孝碑

【石碑 表】
三ツ木城主
松平信孝公の墓
法名 清光院殿忠岳心照大居士
天文十七申年四月十五日妙大寺村ニテ討死
岡崎市教育委員会

【石碑 裏】
昭和六十年十二月吉日建之
松平信孝公之墓再建世話人
浄珠院第二十九世平井訓盛
上三ツ木町
下三ツ木町
上和田町
浄珠院世話方