本尊 弥陀三尊像縁起

本尊

本尊阿弥陀像は、慈覚大師が東国に遊化された砌、此の地の霊跡なるを見奉られ、負い奉られたる太子像を、御守りすべく、一宇を建立するを決せらるる。然るに、聖徳太子が大師の夢に出られ「此の地は霊跡なり、我は佛に非ず、本地を守護すべき阿弥陀佛と共に祀れ。」と御告げ在り、大師霊夢に従いて、御手に鑿を持ち、造られたる尊像なり。宇堂建立せし後は、太子像と共に祀らるる。

その後荒廃せしを、京都より帰られたる教然良頓上人、霊跡荒廃せしを、大いに嘆き、此を復興し、旧観に復せり。然るに、上人、尊像が、三尊成らざるを嘆き、自ら観音、勢至の二菩薩を、造られたまい、三尊に成りたる尊像なり。その後、三尊像揃いて、太子と二師の願いを乗せた弥陀の光明に、願いを託す縁者は列を成した。

然るに、岡崎城主田中吉政に変じ、宇堂破壊され、霊像劫火に晒さるるも、霊験故に破却されず。而して、縁者此を嘆きて、太子像と一所に安置し香華を献じた。 遂に、家康公天下を収め、念仏興隆の御代と成り、此の三尊像は、太子の夢告により大師、上人が願いを託された像為れば、縁者は一宇を建立して再興し、三尊像は衆生に崇敬された。

聖徳太子と二師の縁を受けた三尊為れば、西方浄土の教主阿弥陀如来の光明と、観音の慈悲、勢至の知恵の光は、念仏の衆生を、摂取して捨てたまはず。その後、三尊の光明の縁に、浴す縁者数限りなし。