開山 教然良頓上人

姓は、松平信光公の従弟であり、三河の守松平泰親公の長男で、幼名徳丸と言い、泰氏殿と呼ばれていた。

占部郷變相寺(深草派三河最初の道場で、永正の頃、兵火で廃絶する。現在の正名の永應寺はその旧跡という。)の浄俊妙意上人の弟子となり、薙髪受戒して、名を教然良頓と改める。学への志厚く、上洛し京都円福寺で暢意和尚に師事し、朝鍛夕錬厚く学に勤め、自他の群籍で研鑽しない物はなかった。遂に、伝法伝衣し、衆長に抜きん出で、解行共に熟す。而して、円福寺を辞して、三河に帰り、法蔵寺の龍芸和尚に謁し、再び戒脈を受け、占部の隣村上和田の浄珠院を再興し、講鐘を鳴らし法を説いた。その栄名を聞き、次第に聴講し弟子となる僧俗が増えていった。

晩年、坂崎に西方寺を創立し、津の平に青海寺を立て、跡を法弟海然に譲り、自らは西方寺に隠居した。

寛正二年(1461)松平信光公に屈請され、信光公の婦人と長男の霊前に一轉語を下す。又、信光公も絶塵の模範となして、妙心寺を草創し、真浄院を開基した。而して、上人は徳川氏祖先より熱心な帰依を受けた。以て、上人は、起行専実、日課三万聲を期し、病患に冒されても日課を怠らず。存日の風光は、覆って而も隠さず。貴賤は、上人の徳を敬い、帰依をした。

遂に、紫雲(山)西方(寺)、欣求浄土の床に、寛正五年二月二十二日(1464)、世寿七十五歳を一期として、奄然として示寂す、遺弟啼泣して荼毘に付し、遺骨を法性山妙心寺に埋葬し、石を畳み圓塔を建てた。