聖徳皇太子十六歳自作の霊像は、人皇三十一代用明天皇第二年丁未四月二日(586)、天皇御病脳にましませば、太子深く此を悲しみて御孝心止みがたく看護したまえり。その御病脳重ならせらるるや、自ら装束の上に袈裟を着し、東方に向かいて、手に香炉を取り捧げて、以て、その御病脳の平癒を、薬師如来に祈念したまえり。天皇その孝心尋常ならざるを見たまいて、「汝、その孝養の像を、朕が枕上に止めよ」と詔あり。依って、太子自ら此を彫刻せられたり。
この像、後に大和国法隆寺に安置せしが、延暦五年二月二十二日(786)の夜、伝教大師御霊夢に感じ、大阪四天王寺の六時堂に安置せられしが、その後、慈覚大師は伝教大師より此を伝持して、常に此を負い奉り、東国に遊化して、この地の霊跡なるを見て一宇を建立し、この霊像を安置して大海寺と号し、則ち天台宗比叡山の末院となせり。